清盛の遺言は

「我の死後は堂塔も孝養も要らぬ、ただ頼朝の首を刎ね我が墓前に供えよ」は平家物語に記された文言であり、物語ゆえにかその真偽を疑う声もある。

この遺言は戦国武士の感覚ならともかく、平安時代末期の武士感覚から考えてありえない遺言であるという説が近年では強く、清盛はむしろ頼朝との和睦と後白河法皇との協調政治を望んだとも言われている。

しかし清盛の後を継いだ宗盛が暗愚だったため、宗盛の反対で何ひとつ実現しなかったと言う。

一方で、遺言に従ったのか清盛の墓所ははっきりと伝わっておらず、玉葉の治承5年8月1日にも平家物語と似た意の清盛の遺言と共に、それ由に平家が頼朝を許す筈がないと記されている。

義経との対立末弟・源義経を逐うに至った経緯は、古くから多くの人々の興味を呼び、物語が作られ、研究が成されている。

吾妻鏡では、8月6日、京に在った義経は頼朝の内挙を得ずに任官し、憤った頼朝は義経を平家追討軍から除いたことになっている。

しかし、この記述は同じ吾妻鏡の他の記事と齟齬を見せているとの説もある。
update:2010年06月05日